生きた言葉

本来、私が触れられる話題ではないのかもしれません。それでも、ブログを通じて出会えた事に感謝したいので。以下は非常に私的、そしておもに1人の方へ向けたメッセージ的な内容です。


昨日、お友達を通じてある方の訃報を知りました。衝撃とやりようのない悲しさ、そして彼女との思い出をゆっくり振り返りながら、“WEB上でブログ(日記)を書く”事の持つ意味を少し考えたりもしていました。最初に「ブログ読んでます」とアクションを起こしてくれたのは彼女のほうで、その後メールのやり取り、数は多くないけれど一緒にイベントへ足を運ぶなど、共通の楽しい思い出を持つ事ができました。年齢も違えば住む場所も遠く離れていて、通常なら全く知り合う機会のないままだったかもしれない。“ブログ”という媒体が、私達を出会わせ、交流を深めるきっかけを与えてくれました。彼女もブロガーでした。頻繁に会う事も叶わないし、お互いの深く隅々までを知り尽くしているわけでもなかったけれど、日々綴られUPされる内容から彼女の人となり、感情、思考、近況などを知る事ができ(厳密には“知ったつもり”という非常に自己完結的なものではあるけれど)、まさに会えない時間を補完してくれるツールとして、ブログは欠かせないものだった。今年になって彼女がUPしたエントリの中に『「これまでに得た色んな嬉しい出来事や素敵なふれあいを、必死で繋ぎ止め」るために書き留めている』といった内容がありました。この言葉が今、とても重く、でも強く響いています。
私のこれまでの31年間(もうすぐ32年!)の中で、近しい人との悲しい別れも何度か経験してきました。「絶対に忘れたくない」とどんなに強く願っても、記憶は残酷なまでに薄らいでいきます。それは避けられない事で、前進するためには必要な事でもあります。それでも、やっぱりその人が確かに存在していた事を忘れたくないし、出来れば何かのカタチで残したいと思うのです。だから、彼女がブログというカタチを残してくれた事は本当に嬉しいです。彼女自身に会う事はもうかなわないけれど、アクセスすればあの日あの時の彼女(の感情とか思考とか)に出会う事が出来る、その時の思い出も鮮明に蘇る。半永久的に繋がっていると感じ取る事ができる。そして、新たなアクセス者にも彼女の存在を知ってもらう事ができる(彼女の文章はホントに素敵なのです)。言葉は生き続け、繋がり続けています。そして、私自身のこの他愛ないつれづれも、きっと繋がりたい残したい生き続けたいという潜在的欲求がある限り続いていくのだと思います。
ご冥福を心からお祈りします。安らかに。