お気に召すまま

SHOCKを観終え、コウイチ/光一さんについてあれこれ思う事をつらつらと。
(※私なりの見解なので、ファンの方々にとって的外れな内容でしたらすみません)


結局「コウイチ=光一」だねー、という事が言いたかっただけなのに、そこに至るまでの思考の流れを書き出したらダラダラ長くなってしまいました…。己の思考記録として残しときます。


劇中の「コウイチ」という人は、私の中に漠然とある“堂本光一”像そのものでした。意識されてのアテ書きでしょうけど、それにしてもドンピシャ。そのため、「Endless〜」のストーリーに完全シンクロしてしまい、中一日経った今でもその世界から抜け出せないでいます。コウイチ死なないでーっ!これ、私の1月期標語決定で。
(以前の私は「わ〜っ、何かよう分からんけどとにかくすご〜いっ☆」というSHOCK観客でしたから…)
コウイチはカンパニーのリーダーで才能に恵まれ人望も厚く、彼の周りには自然と人が集まってくるけれども、その中にあっても常に孤独の影が付きまとって見えました。フレンドリーなのに決して懐までは踏み込ませない孤高の人。コウイチにとって自分自身はあくまで表現上の一道具にしか過ぎなくて、だから自分を極限まで追い詰めてでもSHOWに徹し、意識せずに深い人間関係から遠ざかってたんかなー、というのが、私の適当バンザイな解釈です。すべてをやり遂げたから消えていったというよりは、自分の死すらSHOWには必要な要素だからとか思ってそうな。なんて融通の効かない頑固者なんだーっ。
今回幸運にも、もろもろ細部までかなりはっきり見る事が出来るお席での観劇でした。それだけに、SHOCKは華やかに見えて実はとっても泥臭い舞台なのだなーと実感。フライング装置の着脱タイミング(ヨネ氏大活躍!)や流れるような大道具セッティングや演者さん達の立ち位置移動や…あくまで素人目ですが、ひとつひとつ地道作業&緻密な計算の上に成立っていてムダがない!と感動でした。少しでもタイミングずれれば大事故にも繋がるので、当然といえば当然なのですが…。
リスク回避のためにランクを下げる事も可能なハズなのに、それをせず常に極限を目指してハードルを上げていく(そしてスゴイのは、ただただ“リスク”を前面売りにするのではなく、ちゃんと必然性のある表現法として魅せている事*1!)、この妥協のなさこそがまさに「コウイチ」そのものだなって思います。あと、アイデアマンのように目新しい事を繰り出すのではなく、いわば伝統的なものに肉付けして変化をつけていってるんだなー、とも。古典に対する頑ななまでのこだわり(リスペクト?)とか、舞台はアメリカなのに侍(サムライ)的な無骨さを感じましたよ(笑)。
こうして、「つまりコウイチは頑固一徹な古武士」という像が出来上がってしまうのですが(笑)。そこまでガッチガチではないにしても、私の描く光一さん像にかなり被る。こだわりに厳しく(ヲタク気質)、とらえどころがなく(人と距離を置く)、実は保守的なのではないか?とか。あんなにキラキラかっこいいのに、「俺全っ然モテへんねん!」というのに妙に納得してしまう。「王子は何者にも支配されないよ〜ん☆」って事なのでしょうか!?世間に倣って「光一王子☆」とお呼びしてはいますが、何かこう…古武士にピッタリな呼称はないかなーと模索したいと思います。だから何?って感じですが。
何故「SHOCK」を続ける事にこだわるのか?と思ってましたが、何となーくその訳が分かったような気がします。“コウイチ=光一”であるならば、それを表現し続けるのは呼吸をするようなもので、保守的であるために“自分以外の他者”を演じる事に臆病なのかな?と。めちゃくちゃ独りよがりな解釈ですけど…。何にせよ、続ける事でどんどん輝きが増していくのなら、一体どこまでいってどんな事になってしまうのか、すごく見てみたいなーと思いました。でも!いかんせんチケットが取れないんだぜ!!

*1:でも個人的に、階段落ちは果たして…?と思ったり